中島梓さんの死去について

雑賀です。
とりあえず、自分自身の目に見える形で文にでも起こしておかないと、あまりにも実感がわかないのでこうして書いているわけです。エントリやニュースなどにもざっと目を通してみたけれど、やはり栗本薫の名義が多いので、ここでのエントリ名はあえて中島梓。私自身は中島梓栗本薫の順に入ったのだけれど、そういう人はやはり稀なのでしょうね。

結局『グイン・サーガ』は未完のままで終わってしまったとか、JUNE界における一時代の終焉だとか、人それぞれ栗本薫を通して「終わる」ものは数あるのだろうけれど、それら僕には到底把握しきれないたくさんの出来事が、「作家・栗本薫の死」というただ一つの事象に収束されてしまうのだから、それは何だかとてつもなく大きくて、それでいて些細なことのように僕は感じてしまうわけです。
死というものはやはり一つの終わりであって、それでいて一つの始まりなのでしょう。死すらも情報に、そしていずれは資料と成り果てる。そのときが僕はとても怖い。
栗本薫は書くのを止めない――今まで、これは僕ら読者にとっての暗黙の了解ですらあった。今のところ終わらないかもしれないが、とりあえず続くことだけは保障されている。だからこそ、いままで与えられる者(=読者)はただそれを待っていればよかったのだ。それが突然終了する。その、唯一書くことを止める瞬間が今日、来てしまったという事実。リアルタイムの喪失とは、いったいどんな感覚なんだろう……そんなことをふと想像してしまったりしている。

いまいち取り留めのない文章ばかりが思い浮かぶ。というわけで、本日はこれでおしまいです。


少なからず自分に影響を受けた人が亡くなるというものは、本当に喪失感の漂うものなんですね。実は結構前から言っているのだけれど、「中島梓論」は、やはり一度きちんと書いておきたい。と、宣言。

心からその早すぎる死を悔やむとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。