ファウスト的衝動

8月8日です。本屋さんに行ってきました。『ファウスト』です。夢じゃないですよ。もちろん法螺でもないですよ? 今手元にある、これが現実です。写真でも撮って載せてみるのも一興かと思ったんですけど、それなら普通に講談社のサイトでも見れるので止めました。きっと他にたくさんの方々がやって下さるでしょうし。といいますか、正直写真とかの上げ方が分かりません。


読んじゃうと取り込まれてしまうので、先に文句を言っておきたいと思います。待たせたな! じゃねえよ。しかも何、この分厚さ。絶対手の小さい人のこと考えてないだろ。開いた瞬間に閉じるんですけど。ねえ! こじ開けた最初のページからめちゃくちゃ楽しみなんですけど!
……って、すいません。でもまあ、好きなものは好き。それは仕方のないことです。現実社会では簡単には言えないことですから、せめて言えるときには言う。本を開く瞬間は文字通り、胸が高鳴る。そして私はいつだって、指先の震えが止まらないものなのです。

前号から二年半、だそうです。おそらくそれは一冊の本を作るにあたって、とんでもない長さなんだと思う。入学したての中高生が気付いたときには卒業間近。その時間は、人一人変えてしまうにも十分な長さといえるだろう。だけど、読者(わたし)にとって、作家のかけた時間だとか、編集者の労力だとか、そんなものは一切関係ない。全ては結果、すなわち内容――つまりは、この胸を揺るがすことのできる激動、それだけが本の全てなのだ。本とはつまり、そういうもの。私はそう考えている。

たまには辛辣に本に対する私の考え方などを述べてみましたが、それにもし『ファウスト』がつまらなかった場合、ノベルスサイズじゃ枕にだってならないじゃないですか。そうなったらもう、手段はひとつしか残されてないわけですよ。『ファウスト殺人事件』――現場に残されたのは、打撲死体と赤く染まる『ファウスト』。床に残されたダイイング・メッセージと剥ぎ取られた『ファウスト』のページの関連性は? 血塗られた二冊目の発見とともに連続殺人が始まる……!
今秋発表予定……はもちろんありませんが、つまらない本なんて鈍器くらいにしか使用用途がないよね、そんなお話。

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こんなわけで『ファウスト』が私の中で盛り上がり最高潮なのですが、形而上学女郎館も水面下でかなり盛り上がってます。企画だとか素敵イラストレーターさんだとか! 筑井様の出される無数のジョーカーに、正直私が楽しみです。
それにしても、ゼロアカの他の門下生の方々もいろいろすごいことやってますね。ブログにアップされた動画に写真。常識の範疇を超えた想像力……すごいものは、やっぱりすごい。自分に手の届かない才能の前に、私は常にひれ伏すばかりなのです。どう背伸びをしたところで、自分には2000本安打はできないし、100メートルを10秒で走ることは不可能。なら、自分にできないことには敬意を払って感嘆し、自分にできることを精一杯するしかないわけです。
そんなわけで形而上学女郎館、目指すところは――「新本格」。ストレートの直球勝負で、肝胆を寒からしめさせていただきます。文学フリマだからこそできる、むしろ文学フリマでしか通用しないかもしれない「新本格」批評。この言葉を使う以上、一切の妥協はいたしません。


というわけで、今から『ファウスト』読んできます。